巻 頭 言
これから更に
(昭和大学名誉教授)
石 井 暢
21世紀に入り,半世紀の歴史を閲する私どもの日本臨床病理学会が日本臨床検査医学会と名変した.世紀の転換と偶然にも一致したこの名称の変更は重く,幹部の方々は当然のこと,全学会員共々それぞれ研究のいっそうの充実,意識の向上に励み,日本医学会においても更に枢要な位置を占めるよう大いなる力を期待したい.
今時,わが国の急速な国民の高齢化,少子化などにより医療行政は変革を迫られ,その中でも医療費抑制およびその効率的利用の問題が特にクローズアップされてきている.しかしそれらがどの様に変化しようとも,全体医療に対する医師本来の姿勢は変わらない.したがって予防医学,診断治療医学その他の分野において基本的技術の開発,正確精密な知識の普及,またその包括的解釈を広く提供する臨床検査医学は更なる重要性をもつことは論を俟たない.ここで本学会創立当初から関係してきた者の一人として,老耄も顧みずいささかその動きの一端を振り返ってみたい.
1951(昭26)年11月初めて臨床病理懇談会が発足した.当時のわが国は占領軍の軍政下にあり,国立東京第一病院がそのモデル病院に指定されて,命令に従って病院運営の方向として臨床検査の中央化が行われた.これをどの様に一般化し理解させるかに関する集会が上記の会である.会を重ね,特別講演,シンポジウムも併せ行いながら医療関係者の関心を盛り上げ,懇談会は臨床病理学会となり,次いで日本臨床病理学会として今日日本医学会に揺るぎなき地位を獲得するに至った.
初期に特別講演,シンポジウムを重ねた後,これをまた機関誌で広く周知させようと考えたがいかんせん経済的基盤が全くない,そのときある出版社が将来を予測してか赤字覚悟で季刊として引き受けてくれた.また,第1巻1号を「結核」に関する特集としたのも世間に注目されるようにしたのである.
このように比較的順調に発展してきたが,この臨床病理の名称のため,時々進行にブレーキがかかったことがある.会名はclinical pathologyの単なる日本語訳なのであるが,私の誤解かもしれないが特にドイツ医学を中心とした人々の間からのブレーキであったような気がする.その後の西ドイツでKlinische Pathologieでは認知されずLaboratorium Medizineに落ち着いたが,わが国でも伝統的ドイツ医学が意識中にあったためであろうか.
いずれにせよこのたび学会名が改められ新らしい出発点となったが,本臨床検査医会会員の方々がその中心となりすべてを担う人物であることは論を俟たない.したがって会員は臨床検査の医療における位置,学問的な深さ,将来性などすべてに関して広く斯界に徹底させ,加えてさらに今後を担うべき若い有能な人々を糾合されていっそうの発展を期待するものである.